kazu1000のブログ / 社寺仏閣巡り

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【大坂夏の陣古戦場跡】/ 市立玉手山公園

大阪府柏原市玉手山公園内には、「後藤又兵衛基次の碑」、「吉村武右衛門の碑」、「両軍戦死者供養塔」、「後藤又兵衛しだれ桜」(平成12年2月植樹)が、周辺には「大坂夏の陣古戦場碑」、「後藤又兵衛奮戦の地碑」、「奥田三郎右衛門の墓」、「山田十郎兵衛の墓」などたくさんの観光スポットがあります。



【大坂夏の陣古戦場跡】について


1614年(慶長19年)に大坂冬の陣、1615年(慶長20年)に大坂夏の陣、と2度にわたって、大坂城をめぐって豊臣方と徳川方の戦が行われました。玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地です。玉手山公園には、後藤又兵衛基次の碑や、豊臣・徳川両軍の戦死者の供養塔、吉村武右衛門の碑などの石碑が建てられています。中でも後藤又兵衛の碑が有名です。玉手山公園にある又兵衛の碑の横に「後藤又兵衛しだれ桜」という桜が植樹されていいます。




アクセス:近鉄大阪線「河内国分駅」、近鉄南大阪線「道明寺駅」


「大坂夏の陣の勃発」について


和議の条件として、徳川家康、秀忠から豊臣氏に、次の5カ条の誓紙が出された。
1 大坂城に篭城した浪人達の罪は問わない。
2 秀頼の知行は、以前のとおりとする。
3 淀君(秀頼の母)は、江戸に下る必要はない。
4 秀頼が大坂を立ち退くというなら、どこへ行こうと望みしだいである。
5 家康、秀忠は、秀頼に対して、いささかも不信行為はしない。
そして、和議の条件として、大坂城の外堀と内堀は埋め立てられ、二の丸と三の丸も破壊されて、大坂城は本丸だけの「はだか城」とされた。しかし、和議は、豊臣氏に味方した、立身出世や仕官を望む浪人達にとっては失業を意味した。このため、大坂城内では、しだいに再戦を望む声が高まって行き、埋め立てられた堀の復旧工事などが開始された。
これを知った家康は、先の誓紙をひるがえし、豊臣氏に対して、「城中の浪人をすべて追放するか、豊臣氏は大坂城を出て伊勢か大和へ移れ」との要求をつきつけた。
ここに至って豊臣氏の怒りは爆発、ついに再戦が決せられた。夏の陣の勃発である。しかし、本丸だけの「はだか城」では、冬の陣のときのように篭城戦法に頼るわけにはいかない。そこで、豊臣氏は、徳川氏に野戦を挑むこととした。






市立玉手山公園など玉手山の一帯は、大坂夏の陣(1615)の古戦場であるとともに古墳時代前期(4世紀)の古墳群。大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上には、合計14基の前方後円墳と数基の円墳が、南北に連なって築造されています。
また、公園に隣接する安福寺参道などには、6~7世紀の墓である横穴群も存在し、考古学上も大変貴重な地域。


初蝉や 人 松陰を したふ比(ころ)
雲折りく 適(まさ)に青菜見ゆ 玉手山
玉手山公園内には、「初蝉や」の句を「西国紀行」の原文から複写拡大して刻んだ句碑が建っています。