kazu1000のブログ / 社寺仏閣巡り

社寺仏閣巡りが好きです。特に神社が好きで関西を中心に回っています。

【大聖勝軍寺】(だいせいしょうぐんじ)八尾市

【大聖勝軍寺】(だいせいしょうぐんじ)は、大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。 開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、 野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。地元では単に「太子堂」と呼ばれている。河内西国第一番霊場。門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」があり、近くには物部守屋の墓がある。


所在地:大阪府八尾市太子堂3-3-16
アクセス:国道25号 太子堂交差点のすぐ西 (駐車場は無し)。近鉄大阪線八尾駅からバス「藤井寺駅」行きで「太子堂」下車すぐ。又は、JR大和路線八尾駅から上記バス または徒歩15分。


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(撮影: 2017/1/15)

門前に秦河勝が物部守屋の首を洗ったと伝わる「守屋池(守屋首洗池)」があります。


「門前に建てられた太子植髪像と四天王像」


大聖勝軍寺に伝わる寺院創建の伝承
この寺の正式な名前は、椋樹山大聖勝軍寺で、現在は高野山真言宗に属する。太子町の叡福寺が「上の太子」と呼ばれるのに対して、「下の太子」の名で親しまれている。寺伝では、聖徳太子子が、渋川の阿刀の館にいた物部守屋を滅ぼすにあたって、信貴山の毘沙門天に祈願し、四天王を祀ってその加護により守屋を討って、戦勝を得ることが出来たので、難波の高台に日本仏教最初の四天王寺を建立し、この渋川に勝軍寺を創建して、自身十六歳の植髪(うえがみ)の太子像と四天王像を安置したという。


 本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので、右から持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体となっている。



大聖勝軍寺の山門


「山号のもとになった神妙椋樹(しんみょうりょうじゅ)」
大聖勝軍寺は、『日本書紀』に示されない伝説が伝わっている。物部討伐軍に参戦した聖徳太子が物部軍に追われたとき、椋(むく)の木が二つに割れて皇子の身をかくまったというのである。その椋の木が境内に祀られている。推古天皇は椋樹と大聖聖徳法王の勝ち軍を讃え、神妙椋樹山大聖勝軍寺という山号と寺名を賜ったという。


本堂



平和塔


救世観音菩薩


地蔵堂


いつ来てもこのネコがいます。おそらくこの寺のネコだと思います。。


これを右に回すとケース中の塔が回ります。けっこう重い。



毘沙門天堂


大聖不動明王



鐘楼




【守屋討伐戦】について;
 『日本書紀』はこのとき蘇我馬子側についた皇族と豪族の名を列挙している。蘇我馬子に従った軍勢の中には、泊瀬部はつせべ皇子を筆頭に、竹田皇子、聖徳太子、難波皇子、春日皇子らの名が、また紀男麻呂きのおまろ、巨勢臣比良夫こせのおみひらぶ、膳臣賀陀夫かしわでのおみかたぶ、葛城臣烏那羅かつらぎのおみおなららの豪族の名がある。一方、大伴連囓 くい、阿倍臣人、平群臣神手かむて、坂本臣糠手あらて、春日臣などは、別道隊として志紀郡から渋川の家を攻めた。こうして見ると、当時の皇族や豪族のほとんどが、蘇我馬子側に荷担したことがわかる。ただ一人、傍観者として参戦しなかった皇子がいた。敏達天皇の皇子で、常に皇位継承者として名を連ねてきた押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ である。


 物部守屋は自ら子弟と奴の兵士たちを率い、稲城を築いてよく戦った。衣摺きぬずりの地にあった榎木に登って、守屋は樹上から雨のように矢を射かけたという。守屋の軍は士気が盛んで果敢に戦ったため、討伐軍は恐れをなして三度退却した。


 討伐軍の後に従っていた聖徳太子は、戦闘の様子を観察しながら、願をかけなければこの戦いに負けるかもしれないと感じたという。そこで、ヌリデの木を切り取って、急いで四天王の像を作り、束髪の上にのせ、「敵に勝つことができたら四天王のために寺塔を建てよう」と誓った。蘇我馬子も同じように「仏の加護でこの戦いに勝つことができたら、寺塔を建てて三宝を広げよう」と誓った。そして、武備を整えて進撃を開始した。


 討伐軍の中に迹見赤檮とみのいちい という剛の者がいた。彦人大兄皇子の舎人とねりだったとされている。彦人大兄皇子は参戦しなかったが、代わりに弓矢が得意な舎人を派遣していたのだ。榎木に登って矢を射かける守屋を、赤檮は射落とすと、その首をはねた。これによって守屋軍はたちまち崩壊し、兵たちは逃げ散った。戦後の論功行賞で、赤檮 は一万代の田(一代は百畝)を賜ったという。以上が、『日本書紀』の語る守屋討伐線のハイライトである。




物部守屋に関連した史跡が寺院の付近には、物部守屋の墓がある。





この【大聖勝軍寺】(だいせいしょうぐんじ)の前の国道25号線沿いに【太川神社】(おおかわじんじゃ)があります。


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