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【大阪市内神社巡り+観光スポット】(2/2)

【大阪市内神社巡り+観光スポット】(2/2)




④【難波宮史跡公園】


復元された大極殿基壇とその手前に八角殿を模した構造物を見ることができます。
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の上町台地の先端付近にあった古代宮殿。



住所 :大阪市中央区法円坂1
アクセス 地下鉄谷町線「谷町四丁目」駅すぐ、JR大阪環状線「森ノ宮」駅より徒歩5分






⑤【大阪仮病院跡】
大阪市天王寺区上本町、大福寺の境内にある「大阪の仮病院跡」の碑。
1869年(明治2年)2月、ここ大福寺において、浪華仮病院として開業した。院長は緒方惟準(緒方洪庵の二男)、主席教授はオランダ人ボードウィンが務めた。





⑥【蓮生寺】(ねしゃかの寺)
天王寺区城南寺町の蓮生寺さんは丁度辻の角。その辻角に一寸えんりょがちに小さな看板がかけられていて『ねしゃかの寺』と 書かれてる。ねしゃか像は珍しい。5,6段の石段を上って境内に入りますと、すぐ左側のお堂がそれで、お堂に入ると おしゃか様の寝姿。  ゆったりとした十畳敷ほどのお堂のまん中に、黒うるし塗りの木製のベットに、北を枕にして、右手を頬に、静かな寝顔。





⑦「久元寺」




⑧【法性寺】(ほっしょうじ)は慶長3年(1598)真如院日信上人により創建されたお寺ですが、この慶長3年8月18日「つゆとをち、つゆときえにし、わかみかな、なにわの事も、ゆめの又ゆめ」の辞世の句を残し、伏見城で豊臣秀吉が63歳の生涯を閉じています。この事からして、法性寺は豊臣秀吉とは少なからない縁のある寺であると思います。中世の大坂は石山本願寺の寺内町でした。この大坂と戦をして破ったのは織田信長です。信長と本願寺のとの戦いを石山合戦といいます。信長は生前大坂に城を築いていませんが、秀吉は大坂を領してここに築城しました。天正11年(1583)5月石山本願寺旧地に着手し、30余国の人夫を使い、海陸から大名小名を集め、3年余りを費やして大坂城を完成させたのです。





ボードウィンは、1820年オランダのドルトレヒトに生まれグローニング医科大学を卒業し、陸軍医学校の教官をしていましたが、幕末に来日し、長崎で医学生の指導をしていました。


明治2年(1869)大阪仮病院(大阪大学医学部の前身)の開設に伴い抜擢され大阪の地を踏み、大阪仮病院と後から開設する大阪医学校病院で通算2年間、診療と講義を受け持ちました。陸軍創立者の大村益次郎が襲撃された際の主治医となり手術を行いました。


大阪府知事後藤象二郎に公立病院の開設を依頼された緒方惟準(緒方洪庵の次男)は、ボードウィンの身の回りの世話を薩摩屋半兵衛にまかせることにしました。


半兵衛は、オランダ語の会話もできる商人でしたが、熱心な日蓮宗の信者で、法性寺の当時の住職日定の承諾を得て、ボードウィンは法性寺に居住することになりました。
ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせることもありましたが、半兵衛の教化を受け、窮屈そうに膝を折り、南無妙法蓮華経のお題目を唱えるようになったといいます。



⑨【雲雷寺】(うんらいじ)
雲雷寺の創建は約四百年以上前の天正年間(1573~91年)にさかのぼります。
雲雷房・日宝上人が両替商加嶋屋作兵衛とともに、一宇を建立したのが始まりです。
その後、安土桃山時代の慶長3年(1598年)に豊臣秀吉公の政策によって、現在の地(大阪中央区中寺)に移転しました。昭和20年(1945年)の大阪大空襲により、山門を除いた境内のすべてが焼失。同時に、大切に受け継がれてきた多くの品々も失われてしまいました。
しかし、人々の“南無妙法蓮華経 ”の声は創建以来、決して途絶えることなく法灯の明かりとともに今日まで護り継がれています。




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